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備忘録

無関心 -- indifference --

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愛の対極にあるのは憎しみではない。無関心である。美の対極
にあるのは醜さではない。無関心である。知の対極にあるのは
無知ではない。それもまた無関心てある。平和の対極にあるの
は戦争ではない。無関心である。生の対極にあるのは死ではな
い。無関心、生と死に対する無関心である。
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エリ・ヴィーゼル(作家)

 ひとりの旅人がその地方髄一の深い森で道に迷った。何時間
ものあいだ、出口を探すが見つからない。ひとつの手かがりも
、ひとつの道しるべも、どこにもなにもない。タ闇が落ち、旅
人は恐怖に駆られる。次々と悪夢にうなされる落ち着かぬ夜。
夜明け、旅人は飛び起きる。人間の姿を見かけたのだ。感謝の
しるしに持ち物すべてをあたえるつもりで、旅人はその男に駆
け寄る。「ありがとう、ここにいてくれてありがとう。神があ
なたを遣わされたのです。さあ、森の出口を教えてください」
。しかし、男は頭を振って言う。「あなたと同じように、わた
しもここで道に迷ったのです」。それから、憂いに満ちた微笑
を浮かべ、自分の後ろの小道を指さす画「わたしがあなたにお
教えできるのはただひとつ。この道をいくなということ。わた
しはそちらからきたのです」

 これが、あす、誕生しようとしている21世紀にわたしたち
が伝えるべきメッセージなのだろうか?

 わたしたちが別れを告げつつある世紀を、アメリカのユダヤ
人哲学者ハンナ・アーレントは、いみじくも史上「もっとも暴
力的な」世紀と呼んだ。これほど多くの死者を、これほど多く
の幻想を埋葬した世紀はほかにはない。

 ふたつの全体主義的イデオロギー、ふたつの世界大戦、数多
くの内戦と地域紛争、政治的次元の、人種的次元の、経済的次
元の対立、国民的規模の屈辱、狂信的粛清と人種浄化‐‐そし
てこれら惨事の向こうに、これらを超えたところに、これらと
は比較にならぬほどの、ヒロシマの巨大な悲劇とアウシュヴィ
ッツという名の絶対悪…。

  いけない。もはや過去にもどってはならない。それは、人
間の愚かしい権力奪取、ユダヤ人排斥・外国人排斥的性格を有
する数々の試行錯誤、壮大な試み−−そこに必然する論理は苦
悩と死へと帰結する−−を再開することによって、人間の破壊
的な卑しき情熱を称揚する以外になんの役にも立たない。いか
なる領域においても、神のものであろうと人間のものであろう
といかなる権威のもとでも、目的は手段を正当化しない。人間
は決してひとつの手段ではない。

 あすの人間は、この生死にかかわる重要な教訓、つまり人間
が生きること、そしてその生にひとつの意味をあたえることを
助けるはずの教訓を学びとるだろうか?あすの人間の幸福はわ
たしたちの幸福よりも真であり、より確実に継続するだろうか
?その希望はより純粋であり、より真であり、他人の希望を犠
牲にすることはないだろうか?

 1945年、逆説的ではあるが、わたしたちは楽観主義者だ
った。わたしたちは考えた。廃虚と灰とにおおわれ、手足をも
がれ、喪の悲しみに沈む人類は、ついにその行動の基本原則を
理解した、と。それは人類の倫理的広がり、言いかえれば人間
とその同胞との関係に内在する。学者たちに自らの責任を自覚
させるには、ヒロシマの名を口にするだけで充分だろう。愛と
友情に渇く男や女が、自分たちの周囲いたるところにある憎し
みを沈黙させるには、アウシュヴィッツの夜を染める炎のこと
をもち出すだけで充分だろう。そうすれば、どこかで重大な過
ちが、不幸な逸脱が犯されたという重苦しい感覚が、わたした
ちの-なかに生まれるだろう、とわたしたちは考えたのである
。わたしたちはあまりにも無邪気だったのか?人間を信頼した
のは間違いだったのか?人間は死を、その犠牲者たちに忠実で
いることによって克服できるだろうと主張したのは間違いだっ
たのか?


すべての胸張り裂ける悲しみ

 半世紀後のいまもなお、複数の大陸において、貧困が、飢餓
が、無知が、不寛容が、踏みにじられた無垢が、不治の病が、
疫病が、祖国追放が、離散家族が、腹を空かせた子供たちが、
疲れ切った老人たちが、大量殺戮が、戦争(1945年以降に
70以上の戦争)が存在する。これらすべての胸張り裂ける悲
しみをどう説明すればよいのか?そしてそれらに対する無関心
を?想像力の不足、あるいは過剰の結果なのか?おそらくは記
憶の?終末論的大団円、文明の終焉、つまり人類の終焉への幻
惑?歴史に墓をうがちながら歴史を通り過ぎ続けている、あの
さまざまな貌をもつ殺戮の狂気をどう説明すればよいのか?

 だが、しかしながら。物理科学、テクノロジー、コミュニケ
ーション、医学の諸分野で、人間の精神は多くの奇蹟を成し遂
げた。驚くべき発見がなされた。人間は宇宙空間を歩き、銀河
系を数え、大胆にも宇宙の年齢を計測し、平和のために原子を
破壊する。同時に、個体の段階では心臓と脳の機能を観察し、
それを保護する‐−つまり、寿命を延長する。しかし……ひと
たびこの目的が達せられると、人はもはやそれをどうしたらよ
いのかわからない。老人は唐突に地位を追われる。若さのもつ
活力と美とに完全に魅了され、それだけに関心をもつ社会から
拒否されて、老人は自らを役立たずと感じる。よけいなものだ
、と。

 このどこに正義がある?そして、思いやりの心が?

 とは言うものの、真実を尊重して、次のことを銘記しておこ
う。いま終わろうとしている20世紀はまた、偉大なる高揚と
光の瞬間をも経験してきたのである。

 今世紀の前半はファシズムとナチズムの敗北を、後半はソヴ
ィエト共産主義の敗北を目撃した。植民地主義と帝国主義はも
はや存在しない。強制収客所(グラーグ)はその扉を閉じ、ア
パルトヘイトはその力を失った。たしかに、いまでも狂信的な
人種差別主義者はいる。しかし、人種差別はもはやおおやけに
は許容されない。それは実に、かつては法であった場所におい
てさえ、いまや違法である。人権闘争は、とくに若者たちにと
って、世俗的な世界宗教のようなものとなった。難民のための
病院で、祖国を失った人びとの収容所で、傷つけられた人類が
救いと連帯とを緊急に必要としている場所いたるところで、わ
たしたちは若者と出会う。

無関心と闘うことが至上命令
 これは、無関心に対する闘争が決定的勝利をおさめたことを
意味するのだろうか?防衛手段をもたぬ者たちにとって、無関
心はもはや脅威を表してはいてはいないことを?残念ながら、
答えはノンてある。無関心に対する闘争はいまでもひとつの桃
戦であり続ける。それは日々わたしたちに訴えかける。そして
、新たなる世紀が民族と民族との歩み寄りを追求するとき、こ
の闘争こそがその主導権を握らねばならない。

 ユダヤ人としてわたしが後ろ盾とする聖書の伝統は、わたし
たちに神はその被造物とは決して隔たっていないと教えている
。神は神であるがゆえに、無関心をのぞいたすべてである。神
は神であり、人間はその被造物であるがゆえに、人間は無関心
をのぞいたすべてとなりうる。

 ユダヤの律法や教義の注解を集めた書、タルムードの断章の
多くはその美しさゆえに感動せずには読めないが、そこには、
人間の探求と生命における神の積極的な関わりが描かれている
。神は人間の苦悩に心動かされるのと同様に、その願望にも心
動かされる。神は人間の祈りに耳を傾け、その夢に入り込む。

 エルサレムの神殿が破壊されるとき、神は涙を流す。その涙
のひと粒ひと粒が、わたしたちの涙とまざりあう。神は国を追
われた自らの子たちのあとを追う。その子たちと同じように、
わたしたちのだれとも同じように、神は解放を待つ。その解放
は全世界的なものとなるだろうし、また全世界的なものでしか
ありえない。そして神が人間の苦悩に心動かされるのと同様に
、人間もまた神の苦しみに対して、そしてまた、いやそれ以上
に、同胞の苦しみに対して心動かされるところを示さねばなら
ない。これは、人間どうしの関係において、悪に対する無関心
は善の敵であることを意味する。なぜならば無関心は、人間の
尊厳を指し示し、深めうるものすべての敵だからである。極端
な場合には、無関心はその主体と対象とを蝕む。無関心の虜と
なった者は、もはや外側の世界も、内面の宇宙も見ることがな
いだろう。もはやなにも目にはしないだろう。そうなれば、無
関心はただ罪であるばかりでなく、罰ともなる。他人の死に対
する無関心は、遅かれ早かれわたしたちを自分の死にも無関心
とするだろう。どんな共同体でも、その共同体の窮乏と苦痛と
に無関心であろうとすれば、しまいには自分たちの共同体のそ
れにも心動かされなくなるだろう。生者の無関心は、その人間
の耳と口をふさぐ。つまりその人間を、よき驚きであれ、それ
ほどよくない驚きであれ、存在の驚きに対して閉ざされたもの
とする。

 だからこそ無関心と闘うことが絶対的な至上命令となる−−
わたしたちの内部で、そしてわたしたちの周囲で。わたしたち
のなかのある者にとって、これは一瞬たりとも忘れえぬ一種の
脅迫概念となった。どこでもわたしの話に喜んで耳を傾けてく
ださる人びとのいるところで、わたしが何年も前から繰り返し
てきたことを、ここで言ってもよいだろうか?愛の対極にある
のは憎しみではない。無関心である。美の対極にあるのは醜さ
ではない。無関心である。知の対極にあるのは無知ではない。
それもまた無関心てある。平和の対極にあるのは戦争ではない
。無関心である。生の対極にあるのは死ではない。無関心、生
と死に対する無関心である。

 無関心とどう闘えばいいのか。わたしたちは教育によって無
関心と戦い、思いやる心によって、そのカをそぐ。もっとも効
果的な治療薬?それは記憶、いついかなるときでも記憶、であ
る。

 以上が、新たなる世紀の到来を−−もしかしたら誕生するか
もしれない新たなる人類の到来をも−‐ともに待ちながら、目
撃者としてのわたし、ユダヤ人としてのわたしが、日本の友に
伝えたいことである。わたしたちはすでに知っている。ひとつ
の民族が苦しむとき、他のすべての民族もそれに傷つくことを
。そして、ひとつの危険がある共同体を脅かすとき、目標とな
っているのは他のすべての共同体であることを−−だからこそ
、もはや恐怖のなかではなく、苦悩や欠乏のなかでもなく、ご
く単純に希望のなかで、たがいに歩み寄る時がきているのては
ないだろうか?
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Commented by かりん果 at 2011-01-23 18:44
これ全部、御手書きの創作だったらどうしようかと、
びびっちゃいました。
無関心になろうと思っていたんですけどアウトかな。
わからん。。。。
Commented by LuckySevenStars at 2011-01-24 14:33
かりん果さん
田舎からでてきて
東京の最初の印象は
無関心でした。
以来気になるキーワードです。
今なら田舎がうざいと思うでしょう。
時代や場所によって感じ方は異なります。
飽くまで自分を主体にしたときの話なので
気にしないでくださいね。
by LuckySevenStars | 2011-01-20 12:45 | 雑記 | Trackback | Comments(2)